--- アンティーク・エピソード ---ファッションブランドによるコスチュームジュエリー(シャネル、、サンローラン、ディオール等)

日本でヴィンテージジュエリー、コスチュームジュエリーと言うと、ミリアムハスケルやトリファリのコスチュームを扱っているのでそのイメージが強いかと思います。
しかしフランスでは、VINTAGEといえば、1960-70年代前後に活躍したクチュリエたちのブランドメゾンのものを指します。 
その代表格がシャネル、クリスチャンディオール、イヴサンローラン、ランバン、ピエールカルダン等。
彼らの作ったジュエリーは、フランスでも大変な人気です。
もちろんジュエリーだけでなく、もとがクチュリエブランドですから、彼らのお洋服、バッグ、靴も大人気。
パリで開かれるヴィンテージのイベントはどれも大盛況、注目が集まっています。

イヴ・サンローラン
20世紀のファッション業界をリードしたイヴサンローラン。
1936年、旧フランス植民地アルジェリアに生まれます。
家族とともに、幼少時期にパリに戻り、ファッションデザイン学校Chambre Syndicale de la Haute Coutureに入学します。

イヴサンローランの略歴を語るのに欠かせないのは、もちろんクリスチャンディオール。
クリスチャンディオールが1905年生まれで、イヴサンローランが1936年年生まれ。
実に30歳以上の年が離れていた二人だが、若き日のサンローランを見出したのは、クリスチャンディオールでいた。
イブサンローランは、17歳でデザイナーデビューし、2年後にはクリスチャン・ディオールがサンローランを、ディオールのメゾンに招き入れます。
この時サンローランはまだ10代とても若かったため、周囲はサンローランの起用に反対したと言います。
しかしディオールこそは「自身のメゾンを発展させてくれるのはサンローランである」と信じて疑わなかったそうです。

サンローランがディオールで発表したコレクションは大成功を収めます。
しかし1960年、サンローランはアルジェリア独立戦争下、フランス軍に徴兵され、そのストレスにより神経衰弱に陥り、精神病院に収容されます。
1962年、病気の完治とともに、芸術後援者であるピエール・ベルジェの出資により自身のレーベル、「イブ・サンローラン(YSL)」を設立。
2002年の引退まで約40年にわたり、トップデザイナーとして活躍。
モードの帝王」と呼ばれます。

イヴサンローランの後に続くリヴゴーシュはもちろんRive Gauche、パリの左岸を指しています。
サンローランは、左岸のサンジェルマンディプレでメゾンをスタートさせます。
しかし、これはそれまでのパリのモードの人たちにとって驚きでした。
サンローラン以前のオートクチュールメゾンは、それまでは彼らたちの顧客である金持ち階級、ブルジョワ階層が通い易い界隈であるシャンゼリーゼ大通り近辺にしていたのです。

サンローランは当時、若者たちが集まり、実存主義が論じられ、モダンジャズが聞こえ、POPアートを取り扱い始めたギャラリーが増え、知的であり芸術的でアヴァンギャルドなエリアとなりつつあったサンジェルマンを、自らの血としたのです。
イヴサンローラン自身、自ら左岸に住み(彼がピエールベルジェとともに所有し住んでいたアパルトマンも両方左岸にありました)、左岸を愛し、左岸を代表するデザイナーでありつづけました。
オートクチュールの世界でよく言われるのが、「シャネルは女性に自由を与えた、サンローランは女性に力を与えた」という言葉です。
実際サンローランより一つ前の世代に生きたシャネルはサンローランを自らの後継者と公式に発言していました。
これはどういうことかというと、二人とも男性服を女性服に転換することで、女性に力を与えた、ということで共通するものがあるのです。

サンローランのオートクチュール界の功績は大きく、サンローランが2002年に引退したとき、オートクチュールの幕が閉じたと言われているほどです。

またイブサンローランを語る上で、ピエールベルジュという男性の存在は欠かせません。
公私ともに数十年に渡りパートナーであった、ピエールベルジュこそ、若き日のサンローランの才能を認め開花させた人物。
若くしてクリスチャンディオールの後継デザイナーに抜擢されたサンローランですが、アルジェリア戦争に徴兵されたことをきっかけに、一時精神をわずらいます。
そして1962年にディオールを解雇されたあと、PRマンだったピエール・ベルジュの説得と援助により、サンローランは、自身のメゾン「YSL」を立ち上げるのです。
ピエールベルジュはYSLの共同設立者となりその手腕により、YSLは数十年にわたり独立経営を貫きます。
2002年のコレクションを最後に現役を引退したサンローランは、モロッコのマラケシュで余生を過ごします。
もともとアルジェリア生まれのフランス人であったサンローランにとって旧フランス植民地の北アフリカは故郷的場所です。
2008年に死去するその数年間、サンローランはピエールベルジュ以外の誰とも接触をしなかったそうです。
ピエール・ベルジェはイヴ・サン=ローランの生涯の唯一無二のパートナーだったのです。
イブサンローランとピエールベルジェは、美術コレクターとしても有名でした。
2008年6月1日死去したサンローラン。
2人は膨大な美術品をコレクションしていました。
そしてイブサンローランの死後の2009年2月、ベルジェの決意で、そのコレクションのすべてがクリスティーズ開催のオークションで競売にかけらました。
。 収集品は700点以上に及び、イブサンローランとベルジェが長年にわたり、彼らが所有するパリ左岸の2つのアパルトマンに集めてきたものには以下のような美術品が含まれました。
ピカソ、マティス、セザンヌ、ブランクーシの近代美術、アールデコ、ルネッサンスの時代の彫刻、古代のコイン、アジア美術、フランツ・ハルスなどのアンティーク絵画等々。
落札価格は総計465億円にも上り、アンティーク業界で「世紀のオークション」と話題になりました。

ココ・シャネル
ココシャネル(Coco Chanel)の本名はガブリエル・シャネル。
1883年二フランスノオーベルニュ地方に生まれます。
貧しい生まれで孤児院や修道院で育ちます。
10歳代でお針子となり、田舎町のキャバレーで歌手を目指して歌を歌っていたシャネル。
その頃歌っていた「Qui qu'a vu Coco(誰かココを見なかった?)」という歌のタイトルがCocoという愛称の由来のようです。

シャネルは現在でいうところの女性ベンチャー起業家。
20代でパリにお店を持ちます。
最初は帽子店でしたが、瞬く間に婦人服、ジュエリーを手がけるようになり、一躍モード界の頂点に上り詰めます。
常に時代の先端を読み、30代にはパリ以外のリゾート地へ進出して、ベンチャー企業家として数百人の従業員を抱え、モード界につぎつぎと新風を巻き起こします。
第二次世界大戦中はパリを離れて、1944年になんと70歳でカムバックを果たします。
最期のとき(1971年に88歳で死去)まで前線で働きつづけた稀代のデザイナーです。

ココシャネルのジュエリーは、本物の宝石を使わない、あるいは部分的にしか使わない斬新なもので、当時大変センセーショナルでした。
例えばダイヤモンドを中心とする本物の宝石にフェイクのガラスや模造真珠をミックスしたりすることは、当時のフランスの伝統的なジュエリー製作において、反逆的でさえありました。
またスタイルに関しても、昔のゴールドジュエリーの製作に使われたフィリグリーの技術をゴールドメタルに応用したり、初期の頃にはビザンチンスタイルを多分に取り入れたり。
良いと思ったものは、素材の本物偽物を問わず、そして時代にもこだわらず取り入れたのが、シャネルです。
まだまだ階級社会の残る20世紀初頭のパリでわずか、20代で孤児から成功したシャネル。
そうした反骨の精神、好奇心の溢れたパイオニア精神も、当時のヨーロッパやアメリカの革新的な女性たちに圧倒的な支持を得た理由でしょう。

シャネルの才能は、その才能を早く見抜き支援をした一部のフランスの上流階級によって開花し、そして成功後のシャネル自身も、若い人の才能を見出す人でした。
まずは帽子と洋服で成功を収めたシャネルがコスチュームジュエリー(ビジューファンタジー)をビジネスとして展開しはじめるのは、1934年のこと。
このシャネルのコスチュームジュエリーの成功を導いたのが、時の貴族で宝飾に非常に詳しかったエチエンヌ・ド・ボーモン伯爵やフルコ・ディ・ヴェルドゥーラ公爵。
またシチリア系貴族のヴェルドゥーラ公爵は、マルタ十字リリーフなどいくつかのデザインモチーフをシャネルに提供しています。
19世紀であれば、貧しい出身のシャネルがこうした上流階級と交わることは不可能に近かったはずですが、20世紀初頭のパリは新しい時代の息吹に沸いていました。
旧貴族階級が、若くて才能のあるアーティストを支援する傾向もあり、若い芸術家にとっては恵まれた時代といえるでしょう。
シャネルは幅広い交友関係を持っており、パブロ・ピカソやジャン・コクトーなどとも親密であったといわれています。

シャネルのコスチュームを技術的な点からを語る上で欠かせないのはフランスの宝飾工房メゾン・グリポワ(Maison Gripoix)です。
1920年代からシャネル、ディオール、イブサンローランなど名だたるデザイナーのためにオートクチュールジュエリーを製作してきました。
シャネルはいくつかのアトリエとコラボをしてきましたが その中でもっとも有名なのがこの「メゾン・グリポワ」。
先にメタル枠を造り、その中に色ガラス棒を溶かしながら枠に落とし込み、表面張力で枠に張り付かせるという独特な技法を得意としていた工房です。
枠に後から石を装着しているワケではないので隙間が無く、枠にぴったり張り付くのが特徴です。
枠からこぼれ落ちんばかりに、ギリギリまで盛られたガラスは、厚みも様々でどれ一つ同じ物はありません。

ジャンパトゥ(jean patou)
ジャンパトゥ(jean patou)は1920-30年代に活躍したジャズ・エイジを代表する、フランスの有力なクチェリエです。
1888年、フランス、ノルマンディー地方で、皮革商の息子として生まれます。
1910年にパリに上京、毛皮とドレスからそのキャリアをスタートさせます。
第一次世界大戦後の1919年にパリのサンフロランタン街の由緒ある館のサロンを借り、1920年に「ジャン・パトゥ」の名で店をオープンします。

1929年に、ヘム・ラインを一挙に床上20cmまで落とし、ウェストを復活させ、230年代のモードの先鞭をつけ話題を呼びます。
デザインは、シンプルさとエレガンスが特徴で、当時の装飾芸術様式、アール・デコにきわめて調和するものでした。
1920-1930年代のファッション界をリードしたジャンパトゥでしたが、1936年なんと49歳の若さで死去します。

ランバン(Lanvin)
ランバンは、1889年にジャンヌ・ランバン(Jeanne LANVIN)によって、フォーブル・サントノーレ22番地に創立されたブランドです。
ジャンヌ・ランバンは、1867年、パリ生まれ。
帽子店としてスタートしますが、1897年にはドレスを手がけるようになります。

「ランバンのパレット」と称される独特の色使いで定評のあるLANVINですが、その秘訣は1923年に創立したナンテールに染色工場にあります。
またヴェイヤールなどの画家との交流で洗練された色彩感覚を養ったともいわれています。
、 アンジェリコの壁画に由来する「ランバン・ブルー」やアーモンドグリーンなど微妙な色使いを特徴としています。
1920年代には、ランバンはよりシンプルで活動的な女性のめたのスタイル、ギャルソンヌ・ルックを取り入れ、シャネルなどとともに活躍します。
またジャンヌランバンは、女性としてはじめてレジヨン・ドヌール勲章を受勲をしたことでも知られています。

クリスチャンディオール(Christian Dior)
世界屈指の一流メゾンChristian Diorの創始者であるクリスチャンディオールは、1905年生まれ。
フランスのノルマンディ地方グランビルで裕福な実業家の家に生まれます。
父親の薦めもあり当初は外交官を志して、フランスの超エリート校であるパリ政治学院に入学します。
しかし在学中に当時、台頭していたシュールレアリスムに魅せられ、友人と画廊を開設。
ダリやコクトーなど多くの芸術家と親交を深めます。
しかしその画廊は1930年代の恐慌に見舞われ失職してしまいます
その後、帽子のデザインスケッチが好評を博したのを機に服飾デザイナーに転向。
1938年にロベール・ピケのメゾンに入り指導を受け、41年にはリュシアン・ルロンの店に入ります。

1946年、木綿王マルセル・ブサックに援助を受け、現在のパリ・モンテーニュ街に「クリスチャン・ディオール」を設立します。
これがクリスチャンディオール・オートクチュールメゾンの始まりです。
1947年 最初のファッションショーを開催。
戦後のファッションの指針を示したディオールは47年から57年までの11年間、パリのオートクチュール界の頂点に君臨します。
ディオールは1957年 わずか53歳の若さで心臓発作により死去。
後継者には彼の右腕として活躍していた若干21歳のイヴ・サンローランが継承したというのは、有名な話ですね。
40過ぎでようやく成功を収めたクリスチャンディオール。
デザイナーとしては遅咲きで、またディオールは大変早死にをしたため、その栄華のときはわずか11年でした。
1947年、クリスチャンディオールを一躍有名にしたのは、当時「ニュールック」と名づけられファッション業界に衝撃を与えた新しいタイプの洋服デザインです。
「丸みを持ったなだらかな肩と細く絞ったウエスト、ペチコートで張らせた床上20pのフルスカート」というファッションは、20世紀前半のファッションと一線を画したものでした。
このディオールのニュールックにより(「ニュールック」という名前は、当時のハーパースバザールの編集長が名づけたもの)、女性のファッションは短いスカート&ビッグショルダーから、やわらかく丸みを帯びた肩と優雅なロングスカートへと変貌を遂げるのです。

ディオールの最盛期に、ディオールの「若き3プリンス」がいました。
若き日のギ・ラロッシュは、1950年代にディオールのメゾンでクチュリエとして働いていました。
また当時のクリスチャンディオールには、イヴサンローラン、ピエールカルダンもおり、この才能あふれる三人のクチュリエたちは「若き3プリンス」と呼ばれていました。

カルバン(Carven)
カルバンとは、1945年にマダム・カルバンが、パリのシャンゼリゼ通りに開いたメゾンがはじまりです。
シャネルに次いで2番目に古い歴史のあるオートクチュールメゾンになります。
白とグリーンのストライプを配したワンピース Ma Griffe(私の刻印)が当時のパリジェンヌにセンセーションを巻き起こしました。

その後、ショーを披露する度に注目を集め、フランスやイタリアのプリンセスのためにウェディングドレスを創るなど、世界各地の王室皇室がカルバンの顧客になります。
また映画「風と共に去りぬ」でスカーレットが着ていたドレスは、カルバンのものです。
デザインとしては「優雅さと清楚」をその原点としています。
マダムカルバン身長が155センチ小柄だったそうです。
当時では自分に似合う服がなかったことから、ファッションデザイナーを志し、自身のブランド「カルバン」を創設したという逸話があります。
小柄な女性に似合うブランドでもあります。

エルメス(Hermes)
言わずと知れたフランス、いや世界を代表する皮革製品ブランド。
その歴史は、1837年にティエリ・エルメスがパリに開いた馬具工房に遡ります。
当時からナポレオン3世やロシア皇帝などの、トップ権力者を顧客に持っていました。

より幅広い製品を手がけるようになったのは、ティエリの孫にあたる3代目エミール=モーリス・エルメスの時代。
1892年には、馬具製作の技術を基にエルメス最初のバッグ、サック・オータクロア(オータクロア)を製作。
1927年に腕時計、さらに服飾品・装身具・香水などの分野にその活動を広げます。

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